私的日本文明論

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1.はじめに  2001年5月22日

 

2.各地からの様々な影響について・改訂  2001年6月3日

  

3.律令制と荘園制  2001年8月11日

 

4.ブリヤート人はどこから来たか  2001年8月28日

 

5.色んな所から来たのは日本人だけか  2001年8月28日

 

6.「縄文人」は日本人か  2001年8月30日

 

7.「日本古代史」不要論(私的歴史教育案)  2001年9月2日

 

8.戦前史学と戦後史学  2001年9月3日

 


8.戦前史学と戦後史学 2001年9月3日 TOP  

 

掲示板での劉公嗣氏との意見交換とも関連することだが、この春に読んだ小路田泰直『「邪馬台国」と日本人』(平凡社新書)は、非常に示唆的な本であったと思う。

これと例の『国民の歴史』を読まれた方なら分かると思うが、戦前の「弾圧」から、一見左翼的に見える津田左右吉の見解が、どれだけ西尾幹二のそれに似ていることか。

 戦後史学は津田左右吉において戦前史学とつながっているとは、上記・小路田泰直氏の指摘であったが、お互いに激しく批判しあっている戦後史学も西尾幹二も根底ではつながっているのかもしれない。実は、今日、遅まきながら、『徹底批判「国民の歴史」』(大月書店)という本を買ってきて、一部の論説を読んだのだが、どうも、戦後史学では西尾幹二に対する根本的批判は不可能であろう。

 

 なお、私の「東アジア世界史」論に対しては、戦前の「大東亜共栄圏」を連想された方が少なくないだろう。しかし、戦前と戦後とでは状況が根本的に違う。もはや戦前とは違い、日本が中国を侵略することは不可能である。

 戦前は、口先だけの「アジア一体論」を振りかざして、中国を侵略したものの、それに失敗した戦後は、中国に対する日本の独自性を主張する。日本の右翼勢力の思想状況はざっとこんなものではないか。 ちょうど、白村江の敗戦後、自分たちの先祖は、この日本列島において誕生したという神話が作られたように。もちろん、戦前においても、「皇国史観」等、日本の独自性主張は強かったのであるが。

 「戦前の国史の教科書も、現在の日本史の教科書も大して変っていない」という感想を聞いたことがあるが、日本というものが、中国文明の影響を受ける前から、最初から存在していたというような観点に立っている限り、確かに何を書いても、皇国史観の枠組みを根本的に打倒することは不可能であろう。

 考えようによっては、戦前の天皇の立場で語られる皇国史観を、反天皇の立場から裏返して語っているのが戦後史学かもしれない。

 

7.「日本古代史」不要論(私的歴史教育案) 2001年9月2日 TOP  

 

 そもそも「日本」といったようなものが最初からあったわけではない。もちろん、現在の日本の領域に当たる地域には、かなり昔から人間が居住していたとしても、彼らが他のアジア地域と区分されるような日本人と言える集団であったとは限らない。

 むしろ、日本列島というのは、長期に渡ってアジアの南北から流入してきた諸要素が混在していた地域であり、喩えてみれば、雲南のような「中国の辺境」のような地域であった。それが長期に渡る中国文化の影響の中で、日本文化が萌芽し、それが全国に広がる中で、現在のような形が確立していったのである。まさに、日本文化の形成過程はと言えば、かの内藤湖南が指摘するごとく、

 「たとえていえば、従来の日本の学者の解釈の方式は、日本文化の由来を、樹木の種子が最初から存して、それをシナ文化の養分によって栽培されたと考えるのであるが、余の考えるところでは、たとえば豆腐を造るがごときもので、豆を磨った液の中に豆腐になる素質を持ってはいたが、これを凝集さすべき他の力が加わらずにあったので、シナ文化はすなわちそれを凝集さしたニガリのごときものであったと考えるのである。」(「日本文化とは何ぞや」) 原文通り。

 そして、その日本文化の萌芽はと言うと、これは7世紀後半の「日本」との国号を持った国家の誕生、更には平安初期の仮名文字の発明等に置いていいと考えるのだが、その日本文化が質量共に完成して中国文化とも対等のものとなったのは、やはり戦国(室町後期)のことであろう。

大体今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。それ以前のことは外国の歴史と同じぐらいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知っておれば、それで日本歴史は十分だと言っているのであります」(内藤湖南『応仁の乱』)

という有名な言説もあるが、筆者なども実際、応仁の乱以前の日本文化完成以前の「日本」の歴史というものは、東アジア史の大枠の中で考えない限り、「木を見て森を見ず」というか、本当に理解することが難しいと考える

それゆえ、応仁の乱以前においては、特に「日本史」は設けず、中国文明圏たる東アジア世界史の中で扱い、日本史を独立させるのは近現代以降、せいぜいその前史たる戦国(応仁の乱以降)にすべきだと考えるのである。

もっとも、筆者は歴史教育というものは、古代史よりは近現代史に重点を置いてなされるべきだと考える。

 

6.「縄文人」は日本人か 2001年8月30日 TOP  

 

 今回のNHKの番組の背景にあるのは、どうも文部省科学領域重点研究「日本人及び日本文化の起源に関する学際的研究」というプロジェクトがあるらしいのだが、その代表者である人類学者・尾本恵市氏は、この「日本人」を「日本列島に居住したヒトの集団」(NHKスペシャル『日本人はるかな旅』第1巻)と定義し、これを「日本国民」とは区別される。

 しかし、考えてみれば分かることだが、「縄文人」が現在「日本列島」と呼ばれる島嶼にも住んでいたことは確かであっても、彼らが我々現代日本人の祖先であるとも限らないのである。例えば、ブリヤート人と「縄文人」のDNA比較も結構だが、その前に現代日本人と「縄文人」とのDNA比較は果たして、いかなる結果を示したのであろうか。実際、学者の中には、「縄文人」の絶滅的減少を主張するものもあれば、人体形質上の変化から考えて、その後、かなりの新来者との混血があったことが認められている。

 そもそも、「日本列島」などというもの自体が政治概念でしかない。例えば北海道が「日本列島」に含まれ、サハリンが含まれないのは、まさしく明治初期の日露の力関係によるもので、いわばユーラシア大陸東縁の弧状列島の内、「日本国」の領域となった箇所を「日本列島」と名付けたに過ぎないのである。

 その意味で、「日本国家」成立以前の「日本列島」などと言うものは、決してアジア大陸と区別される特殊な地域ではない。これは網野善彦氏などが、よく指摘されてきたことであるが、海は決して縄文時代においても、大陸と列島とを分断するものではなかった。日本列島と大陸の間には、それほどの海は存在していない。

 「縄文文化」と同じような文化は、この時期の大陸にも存在していたのであり、その内、(政治概念たる)「日本列島」に存在していたものが、「縄文文化」と一括されたに過ぎないのである。もちろん、地域的特殊性はあったろうが、それは決して現在の国境線によっては色分けできないのである。

 結局、「縄文人」の本質は、この時代の東北アジア人でしかないのである。

 

補足

 「縄文文化」とか「縄文人」、「縄文時代」という概念自体が、果たして有効なものなのであろうか。結局、「縄文文化」というのは、日本国領域内で発掘される新石器文化を、その時代的・地域的変化を無視して、こう総称しているだけなのではないのか。もし、現在なお朝鮮半島や樺太(サハリン)などが日本領であれば、そこで発見される新石器文化もまた「縄文文化」として一括されていたかもしれない。実際、マクロ的には同じ文化圏であっただろう。

 むしろ、北海道・本州東部から見て、本州西部・九州よりも、サハリン・沿海州などの方が文化的には近かったのではないか。

 

5.色んな所から来たのは日本人だけか 2001年8月28日 TOP  

 

 もちろん、「日本列島」で人類が発生したのでない以上、「日本列島」に人類が流入してきたのは確かであり、それがどんなルートを通じて、どんな人々が入ってきたかと言うことは、やはりそれなりに興味を引く問題であることは確かである。

 しかし、ある意味では、これは最初から答えの出ている問題であり、アジアの「色々なところから来た」という以上に、結局確かなことは言えないのであり、事実そうなのである。

 だが、残念なことは、日本人はアジアの色んな所からやって来た人間の混合によって出来た民族であるという理解が、アジア諸国民との連帯につながるかというと、何かそんな感じでもない。むしろ、多くの日本人の場合、その「混合」や「色んな所からやって来た」ということに、むしろ自らの「アイデンティティ」を見いだし、日本人のアジアの中での「特殊性」を主張する材料にしようとしているのではないか、と言うような気がしてならない。

 しかし、考えてみれば、下に上げた「どこから来たのか」と言う問いかけは、別に日本人だけでなくても、他の世界の諸民族にも共通する問題であるし、同様、「色んな所からやって来た混合民族」ということも、多くの民族に共通することであろう。

 日本人の場合、日本列島が南北に長いことから、アジアの南北から人が集まったように言われ、事実そうなのであるが、逆に東西の幅は狭いとも言える。混合された要素は色々であろうが、遺伝的な要素を問題にする以上、どの民族にしろ、かなり多様な遺伝子を内包しているのではないだろうか。

 

4.ブリヤート人はどこから来たか 2001年8月28日 TOP  

 

 「日本人はどこから来たか?」などと言うが、ある意味、非常にナンセンスな問いかけである。今回のNHKの番組も、このナンセンスのいわば21世紀判総決算なのであるが、今回の目玉は、ハイテク中のハイテク=DNA解析なるものを持ち出して、「日本人の祖先?」たる「縄文人?」とシベリア・ブリヤート人との遺伝的近しさに触れるのであるが、そのブリヤート人がどこから来たのかという問いはついぞ出ない。

 前から不思議に思っていたのだが、「日本人の起源」はというと、「南方」だ、「北方」だと議論は百出するのであるが、それではその「南方」や「北方」の民はどこから来たのであろうか?

 あたかも、現在の南方の民、北方の民が大昔から、その場所に居住していることを前提にしたような議論が、日本の大学者先生達によってなされるのであるが、しかもDNAとか何とかとか、いかにも科学的な装いを持ってなされるのであるが、これこそ似非科学というものである。

例えば「南方」と言った場合、東南アジアの諸民族は、現在の中国の境域に住んでいたものが南下したものであり、タイ人やビルマ人の南下に到っては、何と13世紀のことに過ぎない。今でこそ、中国中心部の主要居民は漢族であるが、これとて春秋戦国から秦漢にかけての時期に、諸民族を混合して形成されたものであり、それ以前の中国本部には、それこそ非常に雑多な民族が居住していたのである。例えば、匈奴も春秋時代には中原にいたという説がある。

話題のブリヤート人にしても、以前はどこに住んでいたのか分からない。妄想をたくましくしてみれば、弥生人に追われた縄文人が北に追いつめられ、ついには渡海してシベリアに渡ったというようなことは考えられないのか(笑)。

 もとより、筆者は太古のシベリア、沿海州、サハリン、北海道という人の流れがあったことを否定するつもりはない。しかし、現在のブリヤート人にこと寄せて、「縄文」人のシベリア起源を説くならば、それはブリヤート人の日本列島起源を説くのと同じレベルの妄想であろう。

 

3.律令制と荘園制 2001年8月11日 TOP  

 

 内藤湖南に言わせると、「昔、ごく古くは氏族制度でありましたが、その時分には地方の神主のようなものが多数ありまして、それらが土地人民を持っていたのであります。」(『応仁の乱』)となるが、まあ中国史書に言うような各地の「小国」(氏族部族的共同体)の首長(酋長)=地方豪族が土地人民を持っていたのである。それを「公地公民」制にしようとした日本の律令制は、唐に倣っただけのことはあって、条文だけ読んでいると、非常に進歩した制度のように見えるが、実質は、この在来のシステムにのしかかり、外見だけを唐の律令制に似せたものだったようである。

 実際、当時、前近代としては一定高度に発達していた中国のシステムを、全然発展段階の違う、原始社会末期状態のような列島社会に移植しようとしても、それは外見的な一致を求めるだけにしかならないのだが、網野善彦などに言わせると、「租庸調」などは「社会自体の中で行われていた慣習を公、国家に対する奉仕として制度化した」(『日本の歴史を読み直す』)となるが、共同体の首長に対する奉仕を、当時の国家に対する奉仕として制度化したと言えないこともない。

 従来、「律令体制の崩壊」ということがよく言われたのだが、近頃では、「律令体制」と言えるような実態が果たして最初からあったのか?という指摘もあり、特に班田制などは疑わしいのだが、筆者は、律令体制というものは、やはり、上に述べたように従来の弥生以来の共同体の上に乗りながら、それに過重負担をかけることによって、従来の共同体を崩壊させ、荘園制の全国展開に道を開いたと思う。つまり、荘園制の「蔓延」をもって、多くの論者は、それを「律令体制」の崩壊としてきたわけだが、そもそも「律令体制」の実質的役割(意識無意識に関わらず)は、原始以来の共同体を解体し、そこから「あぶれた」農民を労働力として、全国各地に中央貴族の荘園を作ろうというものであった。その意味では、公的中央体制の崩壊であっても、それは必ずしも中央勢力の弱化を意味せず、私的な中央貴族の勢力はかえって全国に波及したと考えるのである。

 しかし、公的中央体制の崩壊、即ち公的武装力の無実化は、当然、貴族層に私的武装力としての武士の存在を必要とさせ、最初、貴族に使われる荘園の用心棒であった武士は、荘園体制によりながら、どんどん最初は「用心棒料」に過ぎなかった自己の荘園からの取り分を増やし、領主たる貴族の取り分を侵略していく。

 そして、その貴族の用心棒たる武士を関東中心にまとめた、いわば「広域暴力団」たる鎌倉幕府が成立し、中央に自らの地位を認めさせるばかりか、かえって元の「飼い主」たる中央貴族をも脅迫し、天皇位の継承にまで口出しするようになるのであるが、その中で、列島社会は確実に発展し、南北朝の大動乱を迎え、旧体制は崩壊への足取りを速めるのである。

 足利幕府による暫時の「安定」があったものの、やがて応仁の乱をきっかけとする戦国の到来は、旧体制の完全崩壊と新勢力の下からの勃興、即ち荘園制の枠組みから離脱し、村に集結した農民と新興領主たる戦国大名とその家臣団との勃興をもたらすのである。同じく「武士」と言っても、戦国以前と戦国以降とでは社会階層としての実質が違う。

 内藤湖南の言うように、明治期、華族に列せられた旧大名達のほとんどは、例の蜂須賀小六のような下層の出であり、従来の「名門」は、薩摩の島津のように辺境に若干の例を見るだけなのである。

 荘園制の崩壊過程の中で勃興してきた農民と、おそらくそれに近い層から出て、彼らの領主として君臨した武士とが次の時代の基本社会勢力となるのである。

 

2.各地からの様々な影響について・改訂 2001年6月3日 TOP  

 

 日本文化に対する中国文化の多大な影響が否定できないとなると、次に出てくるのが、「日本には色んな所から文化的要素が入ってきた」、つまり中国以外にも「南方」「北方」等、雑多な文化要素の影響を受けているとの主張であり、これによって、日本文化形成の際に果たした中国文化の役割を相対化しようとするものであるが、今回はこれについて検討してみたい。

 日本文化が、「南方」「北方」等、雑多な文化の基礎の上に出来ているのは確かにその通りなのだが、忘れてはならないのは、日本民族のような一大民族が形成されるには、それ相応の雑多な文化集団を融合する必要があるのであり、それは東アジアの他の大民族、例えば朝鮮民族や漢民族にしても同じことで、決して日本民族の「特色」というようなものではない。   

特に漢族は、規模の大きさから言っても、かなりの雑多な文化集団を融合して成立したことは間違いなく、それは漢族内部の大変な言語差を見ても分かることである。

ちなみに、中国では漢族以外にも55もの少数民族が数えられており、これらは文化的にも非常に多彩な要素で、現在でこそ、彼らは中国の辺境や山間部などに居住しているのだが、中国の歴史をひもといてみると、どうもかつては中国の中心部に居住していたものが多いらしい。

それが、長江・黄河流域での農耕の開始、文明の発生、発展という激動の中で、負けた民族が四方に追放されたり、「亡命」していき、その移動した先で、また「先住」民族を追放したり、それと融合したりという「玉突き」現象の結果、現在に至る民族地図が出来上がったのであるが、基本的に春秋以前の中国というのは、中心部の黄河・長江流域でさえ、現在の少数民族のような雑多な民族(文化)が共存する土地だったと考えてよい。

それが、春秋からの中国文明の新たな発展により、文明は以前の「点」の状態から、「面」としての広がりを持つようになり、中心地域の諸民族を次第に融合し、特に黄河・長江の「南北」をほぼ完全に融合し、一つの民族に統合していった。そして戦国時代、秦漢統一帝国の形成により、融合地域は更に拡大し、現在に続く漢民族が形成されていき、中心地域での「南北」の雑多な文化要素は一応消滅したのであるが、当然、融合を嫌って、周辺に逃れたものもあり、以前からの要素も合わせて、中国周辺には「南方」「北方」的要素が残存したのである。

まあ、大規模なる漢族と55の少数民族という中国の民族構成は、基本的にはこのようにして出来上がったのであるが、中心部での漢民族という大融合を為したのは、ひとえに春秋からの新たな中国文明の結果である。

これは日本や朝鮮にしても同じ事で、雑多な要素が融合するには、やはり文明の作用が必要であり、それなしに勝手に雑多なものが融合するようなことはないのである。そして、中国においては独自に発生した文明は、日本・朝鮮では、中国文明の渡来の結果、もたらされたのであり、それが「にがり」となって、日本・朝鮮の文明が形成されていったのであり、日本・朝鮮の文明形成に影響を与えることが出来たのは、秦漢統一帝国に代表される新段階の中国文明であったのである。

 

.は じ め に (「日本と中国との文化的関係について(1)」改訂) 2001年5月22日 TOP  

 

  一般にこれこそ「日本のもの」と考えられている日本の伝統的なものの大部分が、実は中国に起源しており、日本独特のものというのは大して無い。

 こういう言い方をすると、けっこう反発する人がいて、「いや、確かに日本は中国から色んな文物を取り入れたが、それを日本風に変化させた。」とか、「中国のものを取り入れる際には、これを取捨選択した。」とかいうふうに、中国との相違を強調し、中には、「中国と日本とは全く別の文明圏であり、その両者を包括した東洋文明などと言うものは存在しない。」とまで言う人がいる。

 確かに、たとえその伝統的文化の大部分が中国に起源しているからと言って、現在の日本文化が中国文化の一部であるなどと言うことはない。実際、日本と中国との文化には相当な違いがある。

 しかし、違うと言えば、同じ日本の中でも、アイヌと沖縄の問題もあれば、関西と関東でさえも、文化が違うと言えば違うのである。食生活の問題を見てみても、よく「西の薄口に対する東の濃口」ということが言われるし、関東では常食されている納豆に対し、古い関西人の中には、朝鮮のキムチ以上の違和感を示す人もいる。

 いわば、「違う」「違わない」という問題は、極めて相対的な問題なのであり、日本と中国、更には朝鮮というのは、確かに「違う」問題も少なくないが、世界的に他の地域、インドや中近東、ヨーロッパ、アフリカなどと比べれば、かなり文化的に共通な地域であることは間違いない。

 実際、食生活、年中行事始め、この東アジア地域に共通するものは多いのだが、筆者はこの文化圏の二大特質として、漢字と箸の使用を挙げようと思う。

 文字は借り物にないという向きもあるが、その「借り物」が日本固有のものではなく、しかもインドやヨーロッパの文字でもなく、中国の漢字であるということは、少なくとも日本と中国とがかなり密接な文化的関係にあったことを証明するものではないだろうか。

 箸にしても、日本・中国・朝鮮で、それぞれ独特の箸文化というものがあり、箸の使用法にも相違があるという見解もあるが、この箸という二本の棒を使用すること自体、インドやヨーロッパなど他の地域と区別される、我ら東アジア地域の特性ではなかろうか。

 このような共通点をさしおいて、日本文化が中国、更にはインドや中近東、ヨーロッパなどの文化圏に匹敵する「一大文化圏」を形成しているなどと言うのは、それこそ「井の中の蛙、大海を知らず」と言うものであり、この文化圏の問題で言うならば、日本と中国、朝鮮は共に東アジア=中国文化圏に属しているという他はないのである(もちろん、現代の日本・中国・朝鮮の諸文化はそれぞれ対等であるが)。

世界の他地域と比べての、この東アジア文化圏の共通性というものは、漢字と箸の違い以外にも、かなり多いのであり、それはこの地域が中国文明の影響を受けて発展してきたという歴史的共通性によるものなのである。